一昨日は体の移動がほとんど無かったのに、一昨日の千倍以上移動したであろう昨日よりも日記の文字数が多い。この事実を踏まえて、「言葉は世界の内に無い」などという意味不明なテーゼを思いついた。…自分の言語機能に正確性、言い換えれば言語化する際のチェック能力を持たせたい。あと、チェック能力の質の部分を担う頭のよさ(計算能力や論理的整合性、文脈を読み取る能力)も兼ね備えたい。なんにせよ、直感的に言葉にしすぎている。
直感が悪いとは思わないし、僕は直感的な言語表現が大好きだ。むしろ、そこに重みを置いている。ただ、言葉は不思議なもので、発話する際に自分の内面を担うかと思えば、内面から切り離されて他者に受け取られる。時間がたてば、同一の自分が発話した言葉(自分の内面を担った言葉)が、同一の自分であるのにかかわらず現在の自分とは別の対象としても受け取られる。例えば、過去の日記を見て「俺はこんなことを考えていたのか」と思うし、タイムラグを短くすれば発話しながらでも対象として意識できる。
自分の言葉の自分にとっての客観性は、言葉のあり方の本質によるのではなく、継起的な「時間」が引き起こしているとも考えられる。つまり、自分の内面を表現した言葉が自分にとって対象として捉えることが「時間」によって可能となっていると考えられる。まぁ、理屈は無数に考えられるかもしれない。
ところで、発話する際に言葉はどの段階まで自分の内面を担っていると思えるのか。心の中で思いついた時か、具体的に発音や記述をした時か、言語化してからある程度の時間が経過した後なのか。一定ではないだろう。様々な状況によって変化するからだ。自分の使う言葉には、常に重みを持つものもあるし、そうでないものもある。
言葉が内面を担うということを前提としてきたけど、そもそも言葉は内面を担っていないという可能性も考えられるな。内面を担っているとしても、その事実を客観的に説明できないとも考えられる。